管理人いたくらのプロフィールです
無駄に無駄に長文です。くれぐれもご注意ください。
生誕からフリーター時代まで
1974年に愛知県豊田市で4人兄弟の末っ子として生まれました。
幼稚園の年長さんから空手道場に通い、小学生時代は同級生からのお下がりの服を着て、自転車は父親が粗大ゴミから拾って来た女の子向けの花柄を黒のラッカーで適当に吹き付けたものに乗る。
小学校6宇都年生の時のお小遣いは600円で、貰ったその日にガンプラを買ったらもうすっからかん。流行っていたビックリマンチョコは同級生にダブりのシールを貰うことで何とか参加。お誕生日プレゼントもクリスマスプレゼントもそんな風習は我が家にはなく、2年分のお年玉を貯めてようやく買ったファミコン(初代)本体はカセットを買う分のお金が足りず、友達に借りるまで3ヶ月は箱から出されることもありませんでした。
親などになんでも買って貰ってた同級生が羨ましかったです。
実家から一番近い(当時)の高校に通い、高校生のアルバイト原則禁止な愛知県ではありましたが、某ファストフード店で隠れてバイト。給料日に全額、母親が定期に移し替えていた為に、自分が引きだそうとすると口座にお金がない。まだピュアだった私は定期に入っている金額までマイナスで下ろす事も出来ると知らず、またバイトに精を出すの繰り返し。バイトの最初の時給が480円という時代、高校3年間で150万円を貯めさせられました(笑)。
実家を抜け出し、神戸の端っこの方で4畳半+αの1R一人暮らしをした大学時代、それまで料理もどきはしたことはあってもまともにやったことのなかった為、最初は野菜炒め・野菜炒め・野菜炒め・焼うどん・野菜炒め・野菜炒め・焼きそばを1ヶ月続け、夜に作った野菜炒めの残りをフライパンごと電磁調理器(IHの前の熱線加熱タイプ)に置いたまま翌朝になり、全体が白く糸を引くような粘り気がでたそれを
なんか粘っこくなってるしちょっと酸っぱいけど食える食える!
と完食したのは良き思い出ですね(笑)。
今考えると恐ろしい調理レベルでした。
学生街故に近所の飲食店はガッツリ系の肉・揚げ物・コッテリメニューが中心で、それまで粗食に近い食生活をしてきた自分の口に合わず、必要に迫られて始めた自炊生活でしたが、週の半分は大抵誰かしらがご飯を食べに来て、またそれが楽しかったりして、この経験が後にこの世界に入るきっかけとなるターニングポイントだったように思います。
料理以外だと、サッカーに麻雀、ゲームに明け暮れる4年間でした。
自分の家族や親せきがほとんど農家だったり林業だったり土建業だったりと、周りにいわゆるサラリーマン的な職業がいなかった事で自分がサラリーマンになる姿が想像できず、就職活動も全くせず、実家の農業を継ぐ!と大学を卒業。畑仕事を手伝い始めるも2週間も経たずに、親戚にどう?と言われた遺跡の発掘のアルバイトに。
発掘作業・整理作業と1年半ほど続けた後、次にパスタレストランのホールのアルバイトを2年ほど。なぜかアルバイトの立場なのに年下の新入社員の教育係を押し付けられたり、人手不足の穴埋めの為にシフト予定表の提出を禁じられたり。このころからようやく将来の事を考えはじめ、当時流行りだしていたアグリツーリズムとかグリーンツーリズムと呼ばれた、農家体験型宿泊施設をやりたいと思うようになりました。
当時ウルルン滞在記とか流行ってましたしね。
基本流行りものに弱いタイプなんです。
初めての就職がいきなりオーナーパティシエ
夢に向かって前に進むためにと実家の農業を手伝う事にしたものの、現実はやはり厳しかったです。我が家は一応通年で市場に出荷をしていた農家ではありましたがその規模は小さく、道路開発に伴う田畑接収で得たお金で建てたアパートや貸物件(高校時代アルバイトしていたファストフード店もそのひとつでした)の家賃収入で家計を担い、なので農業では
儲かっても儲からんでもしょうがないなー
的レベルでした。効率とは無縁、味や品質を上げるための努力もない、ただただ暦に従って種をまき収穫していく流れの昭和の時代から続く慣行農業。農作業の半分が草むしりだったことが嫌なわけではありませんでしたが、掘ってきた土付きネギの薄皮を剥き根を切る作業を親子二人で一日掛りで作業して40束で6000円にしかならなかったり軽トラに山積みの白菜4ケ入り40ケースで4000円にしかならないなんて日が続いたりするとモチベーションは駄々下がり。かといって点在する小さな畑を集約して大規模化することも出来ないし、収益性の高い作物にすべて切り替えるだけの技術もノウハウも無いので、惰性で例年と同じものを同じように作る毎日でした。
そんなある日、自身もアルバイトをしていた例のファストフード店が閉店した後に出来ていたシュークリーム店オーナーから、事業譲渡の話を持ち掛けられました。以前同じ会社に勤めていたという縁で最初はウチの次兄に話が有ったのですが、紆余曲折あって自分がその店を継ぐことになりました。ケーキを作ったこともなく経営の知識もまるでないど素人がいきなりオーナーに。
27歳の夏の出来事でした。
流石にいきなりすべてを渡されても何も出来る訳もなく、元オーナー(オーナーの地元でも同じシュークリーム店も経営していて、二号店のみ譲渡)の会社から派遣社員として一人来て貰っていましたが、それ以外は自分とアルバイトのみ。自分がケーキを作れるようにならなければ始まらない小さな店でしたので、接客にケーキ作りに経営を、実務と勉強を平行し、最初の約1年はマジで365日、無休且つ1日14時間以上働きました。
知識も経験も未熟だった為、付け込まれて騙されたことも何度もありました。バター不足の際には、一月で最低40~50ポンド(1ポンド約450g)は使うのに、入荷したのはたった5ポンドだけだったり。なぜか毎年厨房機器やエアコンなど何かしらが壊れ、その修理・交換費用には数百万円要しました。
最初は無我夢中で1日1日を熟すだけで精一杯でしたが、続けていくうちに自分の意識も少しづつ変わっていきました。もともとフォーマットが有る店を継いだことで、自分の作りたいモノと作らなきゃいけないモノが違う事に気が付き始めました。例えば誰もが大好きなイチゴのショートケーキ、国産のイチゴがない時期に使う事になるのは輸入イチゴなのですが、正直イチゴのカタチをした別のなにかと表現したくなるようなそれを使ったケーキを
当店の人気メニューです!
と、もちろん精一杯美味しくなるように作っていましたが、イチゴ以外にもっと美味しい果物も他にいくらでもあるのに定番で売れるからと作り続けることがだんだんとストレスになったのです。
ちょうど当時人手不足で自身の負担も増えていたのもありました。元より自分で一から始めた店でなかった分、愛着というか執着というかが他の方に比べて希薄だったこともあり、まだやり直せる、体力(資金)もあるうちに一度リセットしよう!と、私が店を引き継いでから7年と少しで店を閉めることを決意しました。
リーマンショックの影響で日本でも派遣切りとかが問題になる少し前で、結果的にはいいタイミングでした。
幸いに借金もなく、土地も建物も親の持ち物件。家賃の支払いも拝みこんで免除してもらうことも出来ましたので、片付けをしつつ、偶に他のお店に商品を卸したりヘルプに入ったりもしましたが、多くは店の床に寝転がり、吹き抜けで高い天井を眺めてぼんやり何かを考えていました。
焼き菓子&カフェ sans-souci 開店
今度こそ自分が本当に売りたいモノを、自分の手の届く範囲で作る事。一人でのオペレーションを前提に考え、生菓子ではなく焼き菓子。季節感と彩りをだすジャムと、実家の野菜を販売するスペースに、その野菜を実際に食べてもらうためのフードメニュー。段々形になってきました。
フードを出すのなら当然ドリンクが必要となり、せっかくの焼き菓子を店内で食べてもらうのならイートインスペースはそれなりのものを。ジャムは試食も出来るけど、興味ない人にも試してもらう為にフードメニューをパンにしてそこに添えるようにしよう。
そうして出来上がったのが”焼き菓子&カフェsans-souci”でした。ケーキと言ったらイチゴのショートケーキでしょう!という保守的な土地で、ショートケーキをお求めのお客様はどうぞ他のお店に!と、あえて間口の狭さを前面に、店名も誰も読めません(笑)。
予想はしていましたが、オープンしばらくは全く売れませんでした(笑)。周りからの反対を押し切って作ったキッシュはほぼ売れ残り、ケーキ屋と結びつかないのか、存在も認知されない野菜達。容量多めとはいえ、スーパーで見かける青い旗のに比べて倍から3倍高い、しかも見たことも聞いたことのないような組み合わせのジャムは値札を見てそっと戻される。店名も変わり、内装外装も変わっているのに、前のシュークリーム店の商品がないのはどうしてだ!と怒り帰られるお客様。
暇にあかせて少しづつアイテム数を増やし、ブラッシュアップしていき、少しづつ常連もついていきました。一人オペの為作れる量に限りがある食事プレートは一日14食が精一杯でしたが、ある時から急にこの食事プレートが有難いことに毎日完売するようになりました。数量限定売り切れたら終了のところ、開店11時とともにご注文頂き、早いときは30分経たずに完売することもありました。
食事メニューだけが注目され、ケーキを販売しているのを知らないお客様が多かったです(笑)
流石にそんな状況も一年ほどで収まり、その後も何とか経営を続けることが出来ていましたが、コロナが広まり始めて一気に状況が変わりました。最初はコロナの影響で売り上げが下がってきたなーぐらいでしたが、学校が一斉休校になりマスク狂騒曲になるとお客様は激減しました。対象ではありませんでしたが、小さな店で密になるからと喫茶スペースを止め、その後も感染拡大が続いた為一時休業もしました。
再開後も、売り上げは半減とまではいかないがそれに近い程度が続き、逆にアルバイトとかも当時すでにいなくて完全一人営業だったのもあって、無理にでも売り上げを求める必要もなく、じっと我慢の時だと思い込んでいたのも駄目だったんでしょう。ただお客様を待つだけの時間がどんどん苦痛に。
そんなある日、母が倒れ、意識が戻らぬままそのまま亡くなりました。母の多大なる支えで成り立っていたこともあり、残された家族に亡き母の負担を押し付けてまでのうのうと店を続ける事も出来ないと、オープンしてからちょうど10年を迎えるタイミングで閉店を決意しました。
営業最終日には常連様がこぞってお越し下さり、あまりお時間が取れない中でも労いの言葉と、この店が無くなると困るとの恨み話(笑)を下さり、本当に幸せな10年間でした。
クリスマスを含めた最後の1ヶ月程は毎日数本の栄養ドリンクがお友達でした。
目指せ、キッチンカー開業へ
店を閉めて以後、遺品や家の片付けに畑の手伝いにおさんどんな1年を過ごすうちに、元々店を閉めた後もジャムの卸売とか、イベントでケーキを売ったりぐらいはしたいなという想いはあったのですが、コロナの影響でイベントそのものが激減、ネット販売も多くの方が参入し過ぎていて埋没の危険性が高いなど計画の変更を余儀なくされました。そこでいろいろなマスコミでも多く取り上げられていたキッチンカーに、今更ながら興味を抱き、周りの後押しもあり、遂に開業を決意しました。これを書いている時点では本当に決意しただけで何も始めていません。(2022年4月時点)
前の店の時は固定店舗でしたので、ある意味SNSで発信をしないことで特別性を持たせる形をとりましたが、キッチンカーにはそれは通じないと、よくある開業日記みたいなのを発信し、事前にファンを作ることを広告活動に繋げよう的なマーケティングを自分も導入することに。それがこのブログです。
ネットやYouTube、開業マニュアル本などいろいろと見ましたが、2021年6月に施行された保健所の営業許可基準の見直しや、長引くコロナの影響でキッチンカー先達の方々が成功し、こうすれば間違いない的な手法が、かなりの部分で通用しなくなっていると感じました。
なので、従来のキッチンカー開業マニュアルとどう変化し、どう対処していけばよいのか等、私いたくらが実際に引っかかり、悩み、選んでいく様を記していきますので、これからキッチンカーを始めたいと考えられている方々の参考になれば幸いです。
どうぞよろしくお願い致します。